2016年2月1日月曜日

卒業、という名の翼。


クンツアイトタンブル。リュミエールでup済み





オーストラリアンレピドライト ワンド up準備中



こんにちは。
うちの娘、世間でいえば中3で、シュタイナー学校で言うところの9年生。今の学校は中等部までなので、つまりこの春に卒業ということになります。この一年かけて、卒業・・にまつわる色々な課題や発表などが少しずつありましたが、この週末は2日かけて、12人のクラスメートたち一人一人、自身が決めて取り組んできた卒業研究の発表がありました。深く清々しい感動をたくさん頂き、親子ともども、しみじみと感謝を噛み締めて・・無事にプロジェクトを終えたことで、我が家的にもかなり落ちつきます。これから卒業までの日々を大切に、そして来春から通うべつのシュタイナー学校の高等部での生活に向けて、実際的にも、精神面でも、(エネルギー面でも)準備していく時期に入る。

世間ではまだまだ市民権を得ていませんが、シュタイナー教育は本当に、ぜひ多くの人に知ってもらいたい。今の学校は比較的新しく、娘の学年が三期生。先に卒業した生徒さんたちを見ていて、シュタイナー教育で育てられるとこんなにしっかりした、中味のある立派な中三になるんだ〜ということは、既に分かっていた訳ですが、今回、4年生で編入して以来ご一緒してきたクラスの他のお子さんたち、そして我が子もですが、 素晴らしい卒業発表に本当に、人生でもこんなこと無いというくらいに感動してしまいました。

普通、子供の発表で親が感動・・・というと、「こんなに大きくなって!」という事だと思います。けれどそうではなくて、素晴らしさに本当に胸打たれて、世界に引き込まれたり、絵や音楽や歴史考察、人間考察の奥深さに魅了されたり感心したりしての、感動。もちろんそこには、小さい頃から知っているそれぞれのお子さんの個性や、その子らしさがまっすぐに清らかに、それも強く育っていての、保護者目線の感動も含まれていますが、観衆として集まっている保護者を中心とした100名前後の人々から時折わき起こる声は、純粋に「凄いなあ」という気持ちの現れたものが多かった。

ひとり20分の発表のあと、Q&Aコーナーがあるのですが、もともと中々勉強家だったりする親達の集まりから挙手をした大人が、ちょっと深さを求める、促すような質問がまた来る訳です(笑)。が、少し困ったり照れたりしながらも、子供たちは感心するような答えを返して来て、観衆はまた唸る(笑)。子供たちは決してお固く育っている訳ではなく、シュタイナー教育が大事にしている芸術性を兼ね備え、ヒーラーとしての私から見ると「右脳左脳」にせよ「男性エナジーと女性エナジー」にせよ、とにかくバランスが良い。感じることと考えることが両方、しっかりと出来る。そして中三で既に、それぞれが自分の世界を持っている。聞かれた事に自分の言葉で堂々と答えられる。そんな15歳に育っている。。

浅田真央ちゃんや羽生君にせよ、ももクロちゃんにせよ、「15〜16歳でこんなに!」と思って見ていたものだけれど、まったく同じ気持ちになりました。面白い事に、卒業劇の時もそうだったけれど、親達はみんなそういう気持ちになって、「凄いね」と感動を分かち合う。親達は、シュタイナー教育に興味を持って集まってきた人々だけれど、自分たちはシュタイナー教育は受けていない。そこで育った我が子たちの成長した姿に、親としてという感覚を越えて、「凄い」と思える。そういう教育の場なんです。。そして先生たち親達がひとつになって、学年を越えて生徒たちを見守る温かい母体のようなものになっている。私は本当に語る資格は無いというくらいにお手伝いもしない母ですが。。

母子家庭である我が家としては、とにかく自分の使命はしっかり仕事をして家計を支え、娘を学校に行かせ続けることが、学校における自分なりの貢献であると途中から考え、申訳ないけれど出来ないことは出来ないという開き直りの中で、我が家なりに頑張って来た。他のご家庭もそれぞれ。そう、何もない訳ではなくって、子供たちも家庭も、学校も先生たちも、試練のようなものはたくさん越えて来た。だからこその、到達点としての子供たちの成長を感じました。15歳にして、何と言うかすでに「研ぎ澄まされている」感じがする。だから、単に研究発表というのではない、清々しいエナジー、そう・・光を感じる。

すべての発表が素晴らしかったのですが、印象的な場面が幾つか。「光と影」について鉛筆画を描くことで考察した男の子の発表(シュタイナー学校の生徒たちの絵の上手さは本当、びっくりします)では、影は影でしかないと最初は思っていたけれど、描いているうちに影の中にも光の部分が在る・・とか、光との境界線の部分が実は一番暗いとか、奥深い話に感心していると・・・次の発表は「ヒトラー」の人物考察。ここに個人的には「光と闇」テーマでのリンクを感じながら聞いていて、私の中で、「ああ、あんな人生もヒトラーにとっては『自己表現』だったのだろう」と思っていると、観衆の保護者から同じ言葉がコメントとして出て来ました。発表した男の子の考察の中では「多くの人に利用された人生」というのもあって、出会いや運命によっては、もっと違う場で彼は自己表現していたのかもしれないなと、新たな認識を持ったり。

人と森の関わりについて研究発表した男の子に、保護者が「どんな風に君は森と人が共存していけると思いますか」と質問すると彼は、「僕は、人が森を保護するために手を加えるというテーマよりも、人が生きていくために木を切ったら、それが森にとっても良い結果に繋がる様な共生の道を探りたい」と答え、保護者たちからは思わず感心のうなり声が。。聞いていて私も、最近の石巫女の座学で出てきていた「共進化」という言葉を思いだしていました。鉱物が誕生し、海と共進化する。やがて生命が生まれて、生物たちが陸に上がると、森の植物と、動物たちと、地中の鉱物界は「共進化する」・・・地球は本来、そんな風に出来ているはず。人も自然の一部なのだから、そこに人が入っても、傷つけ合わずに共存、共進化する道は必ず本当はあるのだろうと。。

そして最後のトリを務めた男の子は、ショパンを研究し、ピアノを実演。彼が最後に代表曲のノクターンを引くと、会場で多くの、涙の気配が。。私も堪えるのに必死だったけれど、私の隣に座っていた彼のお母さんが凛として泣かずに居たので、我慢していました。が、演奏が終ったとき、多くの人が泣いていたのが空気感で分かった。単に上手な演奏では、人は泣いたりはしないのですが・・・ショパン自身の切なさや悲しさがそのまま、彼に乗り移っているかのようで、それに聴衆は引き込まれて、震えるような感動に包まれたのだろうと。その男の子はピアノは独学。純粋にピアノを弾きたいという想いで、楽譜が読めないうちから音を耳で拾って自分でピアノに向かって一人練習して来たのだとか。。

何というか・・・心、を越えた、魂が確実に育っている。大人と比べてもいけない。彼らは世間の大人よりもずっと大人だ。自分軸が既に揺るがずに存在しているし、手先も器用だし芸術的感性と、学問的な思考力、仲間を想う明るい優しさや、凛とした純粋な強さも。シュタイナー学校の子というと、もしかして浮世離れしたかたわな感じになっちゃうのでは?と世間は想うかもしれない(私も最初はそれを心配していました)。全くそんな事はなくって、先に卒業した先輩たちもそうですが、本当にバランスと軸のある、しなやかに強い15歳になっています。

余りに感動してしまい、身体というかエーテル体がエネルギーの細流で震えるような感じだったので、まっすぐに家に帰れないな〜と想い、娘はお友達と打ち上げというので、思わず青葉台のイタリアンに「おひとりさま」でランチに入りました。ワインを2杯飲みながら、自分も頑張っていこうと思考が巡るに任せて。。。先生方や、なかなかの人々が集まっている保護者たち、そして子供たち・・・こういう「母体」に、自分のような人間が一員として在籍させてもらって、「この場に恥じないように」自分は自分の役目をしっかり実現させて行こうと、とても良い刺激を頂いた。そして書店に寄って、2月からの「意識の学校」や、今年やろうと想っている執筆活動のための書籍を、ドッサリと買って帰りました。(笑)

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このようなことから、改めて刺激されて感じたのは、
「研究」から生まれる(知識ではなく)体験、それが知恵となって自分の力になっていくという、カレッジでも大切にしていることが、人が何をするにおいても重要になるということ。研究や探求、勉強というと、(私はもともと中2くらいから勉強が好きで仕方無いのでそうは想わないのだけど)堅苦しくて、知識を増やして不自由になる・・と考える人が居るようです。が、決してそうではない。学び、研究は、体験なんですよね。学んでいるうちにやってくる、何かが自分の中で繋がっていく瞬間、深いところでの理解や納得が身体中に力となって広がっていく瞬間、それと、高次からやってくる閃きや直感が繋がっていく瞬間。。。

細胞分裂がパチンと起こるような、躍動的な体験の瞬間。そして、自分を支えるパワーとなって身体に根付いていく。

年末年始から、1月一杯は、今振り返るとここに至るプロセスだったようにも思います。エネルギーと意識、人間の法則を、日常生活のレベルでマスターしていく「知恵」をメソッドにしていく試みがカレッジだとすると、今年やろうとしていることは、エネルギーヒーリングの専門家レベルでのメソッド・・プロとして遭遇する問題や、プロならば知っておいたほうが良いエネルギー次元のことを、自分が自然体でやって来たことを敢えてこちらの世界に顕現させて、分ち合えるものならば分ち合おう・・役立てて頂こうという。

夏か秋から始めたいと今ぼんやりと考えている新しいクラスでは、きっと一般的なヒーリングスクールとしては「そんなことまではいらない」という領域に入るかもしれない。けれど、アルガンザではアリス・ベイリーの記述が、私が他で得られなかった自問や疑問への答えになってくれて助けられてるという事実から、私が見ているこの場所、この立ち位置で考えるプロとしての仕事や、プロのヒーラーとしての24時間を、苦しまずにしなやかに過ごしていくための知恵として、提供できるはず。自分から見えているものを、形にしていく、それしか無いのだと想う。特にこれからの時代は。

ヒーリングサロンと言えども、ヒーリング業界といえども、みんな違う。自分基準にして、提供していく。共鳴共振する人々が集まってくれるのをただ、待ち受け、迎え入れるだけ。

そのためには、「研究」と「考察」と「明確化」がやはり必要で、本来見えないエネルギーや魂といったものの中からどう法則性を求めて帰着させていくかの試みが不可欠。どの層で見るかによってアウトプットの周波数は変ってくる。自分の層で見て形にしていくと、必要な共鳴が起きる。そこに「生きた場」が生まれ、宇宙の錬金術が起こる。


帰宅してから、クリシュナムルティのDVDを見ていました。とても悲しんでいるような、静かな怒りのようなものが滲んでいる目、話し方だなと思った。。伝わらないことへの悲しみ、人類の思考や感覚と、自身が知っている生来の知恵や感覚との余りの隔たりに、とても静かだけれど悲しみと、怒りを凝結させているような。言葉は淡々と、シンプルな反復が多いクリシュナムルティですが、一言でいえば自分の中にすべてがある、今の中に未来がある、人は自分であり自分は社会である・・という、ワンネスに尽きるのだと思います。

「今、自分を変えなければ、未来が変ることは無い。」

今この瞬間に自分を変えてしまわなければ、未来で自分がゆっくりと変って成長していくなんて事は起こらない。未来の創造は今、既に始まっている。・・・対談の中でのその言葉が印象に残りました。


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自身の発表を終えて清々しい娘と、振り返りトークをしていました。
娘は、「クラスメイトひとりひとりが愛おしくて仕方なくなった」と言っています(笑)。それぞれの今迄があって、苦労なども見てきた仲間たちが、自分という個性を花開かせて、未来への夢の気配を感じながら、15歳の全力の自己表現をしている。そんな姿に、感動して「胸がいっぱい」だそうです。親たちと同じ目線だなあ。笑

編入してきて1年ちょっとのところで、色々あって、担任の先生と退学に向けての話し合いをした事がありました。あの時、それぞれの不信感のようなものが、恐らくシュタイナーのいう「分離の力(ルシファーの力)」に増幅されて、話がまったく食い違い、平行線。互いに怒りのようなものを挟んで、その向こうに相手を見ていたような状態だったと今ならば分かります。が、ヒーラーをしていたお陰で、「それは自己の持っているもの、何かの投影だろう」「自分の隙間をついて分離の力(光の同志を引き離そうとする闇の力)が働こうとしているのだろう」と、かなり泣いたり苦しんだりした(一日くらいのことだけど)末に、そう思えた。それで自分の感情を引っ込めて、進退うんぬんを引っ込めて、再びの話し合いに臨むと・・・

間に入った別の先生の「白魔術」効果もあって(本当に森の魔法使いのような風情の先生なんです/笑)、するすると解決していった。少なくとも「こじれた」まま分離することなく済んだ。という経験をしました。人生において、あの変換のマジックは、とてもとても大きな体験となりました。そのお陰で、娘も私も今ここに居て、卒業発表の感動の中に、ありがたいことに一員として座していられた。あのとき、学校を辞めていたら今は・・横浜に居なかったかもしれないし、少なくとも、シュタイナー教育に何となくの敗北感というか、失望感を抱いたまま、生きていただろうと思います。

立派な発表で大人たちを唸らせ感動させてくれた子供たちも、決して平穏なだけの学校生活ではなくって。親たちもそれぞれ、本当にいろんなことが起きるなあ・・という。それもシュタイナー学校ゆえかもしれません(笑)。だからこその、光なのでしょう。光は影があるから光であれる。影の要素やテーマを無視するのではなく、それも受け入れ受けとめるからこその、完全なる光であり、愛になれるんだと思います。そのためには、影や闇といったテーマも、避けるのではなく、そのメカニズムを明確化することが、むしろ救いになる人々も居る。

以前から、「ハッピーでわくわく」というノリで、本来のスピリチュアルから人々を逸らす流れがあるなあと思っていましたが、今はさらに新手として、「もう統合の時代だから」「あなたは/わたしたちは光そのものだから」といって影に目を向けることから人々を逸らす。それよりも、ジュワルクールやシュタイナーのようにメカニズムを明確化することで、そこに堕ちてしまっている自分の一部を持つ人に、「〜だから、こうすれば解決しますよ」と言ってあげられる、そのためのワークを行なっていくことが、本当のヒーリングだと私は思います。明るく清々しく、語ればいいのです。

「肩凝ってるネ〜。解しましょうか。」というのと、同じで。笑 そこに善悪のジャッジ感が、人としての思考で働くから、逆にあるがままを避ける。まだ在るものを無いものとすることはできず、救済してあげなくてはならない私たちの一部、コントロールを覚えなくてはならない自分の一部というのは、誰にでもある。そんな不快要素の浮上や、不完全さとの対峙をしながら、魂は磨かれていくのです。

それが、魂の自己実現の道程なのだ・・・と、卒業発表の子供たちを見ていて、その背後にある親達の歴史を感じていて、改めて思いました。クリシュナムルティの、淋しそうで悲しそうな瞳が意味するものに、共感する自分を感じ乍ら。

まだ、卒業式という訳でもないのだけれど。
卒業発表は、10月の「受験」以来の、一番の山場でしたから。。
既にここでそんな気分に。笑

カレッジ3期の卒業、私自身の少し前の記事で書いた「少女時代(?)」の卒業、などとも絡めて。「卒業」はやはり、次のより高い空へ飛び立つための、新しい翼をもらうセレモニー。




リュミエールでup済み ラディアンスジャスパー


Love and Grace,
Amari